あの人のスマートワークが知りたい! - 第18回

生稲晃子さん提案のトライアングル型支援は「仕事と病気治療の両立」を目指すもの



がんと向き合い5度の手術を受けながら仕事を続けた経験を活かす

生稲晃子さんと聞いて、おニャン子クラブやうしろ髪ひかれ隊のビジュアルが脳裏に浮かぶ昭和世代の読者諸兄も多いはず。現在、生稲さんは母であり、2011年に見つかったがんと向き合いながら、芸能活動に加え、働き方改革実現会議の有識者会議に民間議員として参加している。生稲さんのこれまでの歩みと、「働く」ことへの思いを聞いた。

文/まつもとあつし、衣裳協力/Yukiko Hanai


生稲 晃子(いくいな・あきこ)
女優・タレント。1986年に「夕やけニャンニャン」オーディション合格。おニャン子クラブの一員として活動開始(会員番号40番)。1987年に「うしろ髪ひかれ隊」でデビュー。1988年のソロデビュー後は女優・タレントとして活躍。2011年、乳がんが発見されるも公表はせず、テレビ出演などを続けながら2015年までに5度の手術を受ける。2015年11月にがんを公表し、2016年には政府の「働き方改革実現会議」に民間議員として参加。自らの経験を元に推進を訴えた「トライアングル型支援」は、働き方改革実行計画に組み込まれている。

受験生と芸能活動という「複業」から学んだこと

―― まずは私もリアルタイムで見ていた「おニャン子クラブ」「うしろ髪ひかれ隊」といった芸能活動を振り返るところから始めたいと思います。受験生でありながらの芸能活動、振り返ればかなり大変な「複業」だったのでは?

生稲 きっかけは単純に『お金が欲しいな』という安易な気持ちからでした(笑) 芸能人になりたいとは正直思っておらず……。でも、おニャン子クラブはグループでしたし、フジテレビという大きなメディアが活動の場でしたから、あまりイヤな思いはしませんでしたね。当時の感覚としては、まさにクラブ活動の延長でした。そういう意味では甘い考えだったな、と思わなくもありません。

 実際、「夕やけニャンニャン」の放送が終わり、うしろ髪ひかれ隊の活動も終了してからは、自己責任の世界に放り込まれました。グループに属していたからこそ、歌って踊っていられましたが、ソロデビュー後はまたイチからキャンペーンを始めなければなりませんから。そのギャップが、まるでそれまでの積み重ねをすべて失ったような気持ちになり、最初は辛かったですね。

―― その経験は、会社で働く人たちに通じるものがあるかもしれません。転職や異動、あるいは環境の変化でそれまでのキャリアで蓄積してきたものが通用しなくなる体験をする人も数多くいます。また、「働き方改革」のなかで「複業」も提唱されており、生稲さんの「受験勉強をしながらの芸能活動」というご経験にも共通点がありそうです。

生稲 そうですね。普通の高校生のように皆で放課後遊びにいく、といったことはできませんでした。学校が終わったらすぐ電車に乗ってフジテレビに向かうという毎日で、仕事は深夜に及ぶことも珍しくありませんし。特にわたしの場合、軽い気持ちで高校3年の6月におニャン子クラブに入ってしまったこともあり、夏休みも海外での仕事とコンサートツアーでしたから、勉強の時間を確保するのが大変でした。2学期が始まって、夏期講習を受けていた友だちとの差に愕然としましたね。ですから隙間時間が少しでもあれば参考書を広げていました。

 元々、わたしは学校の先生になりたかったんです。だから終盤は1日7時間くらい勉強して頑張ったのですが第一志望の大学には合格できませんでした。でも、振り返れば高校時代のそういった経験から得たものもきっとあるんじゃないかなと思っています。複業の両立で苦労をされている方も少なくないと思いますが、そこから得るものはあるはずですよ。

―― メンバーのなかには、同じように勉学と活動の両立で大変だった人も多かったのでは?

生稲 はい。わたしがおニャン子クラブに入ったときには、すでにソロ活動を始めている方もいました。その頃はあまり(自分の)人気も気にしておらず、ソロ活動をするつもりもなかったので、無邪気に彼女たちを応援しているだけでしたが、同年代がそうやって一人で頑張っている姿にはとても刺激を受けました。控え室に届くファンレターの数、ライブでの声援の大きさで否応なく「人気」という評価が目に入って来ますので。

―― そして、おニャン子クラブの解散とその後の大学に通いながらのソロ活動は、今度はビジネスパーソンにとっての独立・起業にも通じるものがありそうです。

生稲 わたしの場合、おニャン子クラブ解散後もフジテレビさんが支える形で、うしろ髪ひかれ隊の3人での活動が続きましたので、『人数は減ったけど、クラブ活動は続いている』という感覚だったんです。それも終わるかなという頃に、所属していた芸能プロダクションの社長からソロデビューしないか、という提案がありました。わたしは歌に自信がなくて、芸能界に自分の居場所はない、もう辞め時かなと思い、最初は断ったんです。アイドル全盛期でしたから、とてもビックリされました。そのときの社長の言葉は、「逆に面白い! じゃあ来週レコーディングだから」でしたね(笑)

 そのときに、19歳のわたしは考え方を変えようと思ったんです。相変わらず自信はないけど、ここで断ったら何か大切なものを手放してしまう。沢山の人が自分のために動いて、ある意味「レール」を敷いてくれている。そのレールに乗ってみようと。それでダメだったら、その後のことはそのときに考えようと思いました。

―― 「他人の敷いたレールに乗る」ことが逆に大きな決断だったわけですね。

生稲 自分には決める力がない、とわかっていたからこその「決断」だったのかもしれません。でも乗っかるなら、徹底的にそのレールと向き合おうと思ったんです。とはいえ、『あー、もう降りたい!』と思うことはその後何度もありましたけどね(笑) でもそうやって30年を超える芸能活動を振り返ると、『あそこで乗って良かったな』と本当に思います。優柔不断なわたしだったけど、思い切って身を任せる柔軟さも持ち合わせていたのかもしれません。

「おニャン子クラブ時代、控え室にはファンレターを入れるダンボールが一人ひと箱ずつ並んでいました。その埋まり方で人気は一目瞭然なんです。当時のわたしはクラブ活動の感覚で楽しんでいましたが、今思えば、あれは競争意識を持ってほしいという番組スタッフの計らいだったのかもしれません(笑)」

病気と向き合いながら働くということ

―― ご結婚、育児を経ながら芸能活動を続けられてきた生稲さんですが、2011年にがんが見つかります。治療方法や社会の理解も広がりつつある昨今ですが、やはり大きなショックを受けたと振り返られていますね。

生稲 それまで比較的健康だったので、どこか『自分は大丈夫』と思っていたんです。でもそんなことはなくて、たまたま受けた人間ドックでがんが見つかりました。信じられなかったし、ショックでしたね。

―― しばらくお仕事は休まれたのでしょうか?

生稲 ちょうど「ちい散歩」のレギュラーをさせていただいていたのですが、歩く=健康というイメージの強い番組なので、自分が病気だと明かすことに躊躇しました。スタッフさんにも迷惑をかけたくなかったし、外見に変化が出るなどして周りから「もう降りましょう」と言われるまでは、続けられるところまで頑張りたかったのです。

 結果的に、公表はがん発見から5年間控えることになりました。事情を知るのは家族と番組プロデューサーなどごく一部で、地井さんはじめ出演者の方にも伏せていました。そして収録の合間に入院する形で出演を続けたのです。

―― 先ほど優柔不断と仰いましたが、それは大きな決断だと思います。

生稲 そうかもしれません(笑) 知らせないと決めたから、絶対バレないようにしようと。発見が比較的早く、治療は順調かなと思ったのですが、翌年、さらにその翌年も再発して手術が続きました。そのときは、もう『最悪のことも考えなければならない』と流石に落ち込みました。

 でも先生から命を最優先するために全摘出の話をされたときに、迷いはありませんでしたね。まだ7歳だった子どものことを思えば、とにかく生きなきゃと思ったんです。この子が成人するまでは傍にいたい、と。

―― 優先順位がはっきりしていたのですね。ご病気もありながら、芸能活動、心理カウンセラー、そして2016年からは働き方改革実現会議を経て、働き方改革フォローアップ会合の民間議員を務められているのも、芯をしっかり持っておられるからだと思いました。

生稲 働き方改革については、安倍総理大臣が「仕事と治療の両立」という項目を入れたいとお話しされたと聞いています。ご自身も病気が原因で総理大臣を一度辞められているというご経験からだと思います。そんななかで、たまたまわたしにお声がけがあったのかなと。

 わたしは例えば非正規雇用の問題などは芸能界にいて正直よくわからないのですが、がんを経験したものとしてなら会議でお役に立てるかもと思って、お引き受けしました。他の民間議員の方のような統計データを持ち合わせているわけではないけれど、私自身がある意味データなのかなと。

 まだまだ社会にはがんをはじめとした病(やまい)への偏見が根強くあります。会社に報告した結果、キャリアを失うということも残念ながらあると聞きます。特に家族の大黒柱であるお父さんにとっては深刻な問題です。無理に無理を重ねて病気を隠しながら働いている方も少なくないのです。私自身の経験を振り返っても、それはとても辛くて切ないはず。だから、職場でも辛いときは辛いと言えて、それでも働き続けることができる、そういう社会を作って行ってもらえたら、と思って提案させていただいたのが「トライアングル型支援」なんです。

平成29年版厚生労働白書より、トライアングル型支援のイメージ。

厚生労働省「働き方改革実行計画」より、治療と仕事の両立に向けたトライアングル型支援などの推進について。

 がんのような、長い治療期間を必要とする病気を抱えていると、「今この仕事はできないけれど、数ヵ月後ならできる」といったことが、その逆も含めてよくあります。そうなるとやはり、医療機関と会社がしっかり連携を取ってくれることが、患者にとっては、ありがたいはずなんです。

 実行計画では、この3者の連携を取り持つ役割として「両立支援コーディネーター」を置くことになりました。いきなりお医者さんと会社がつながって連絡を取り合うというのは、なかなか難しいことです。また、一定規模の会社にはすでに産業医が置かれていることもありますが、できれば心のケアまでもカバーできる存在もあってほしいのです。

 であれば、そこに両者をつなげるハブ的な存在があれば、物事がスムーズに進むはずだということですね。患者さんの不安は体調だけに留まりません。お金のこと、家族のこと……そういった「不安」に専門スタッフがカウンセリングできると良いと思います。そうすれば、病気を抱えていても、やり甲斐・生きがいをもって働くことができるはずだからです。

―― 生稲さんご自身も認知行動療法を学ばれ、カウンセラーの資格をお持ちです。心の健康も大きな要素である、ということですね。

生稲 そうですね。心理カウンセラーという「心の健康のプロ」が必要というお話は会議でもさせていただきました。それは患者である働き手だけでなく、彼らと向き合う職場の同僚や経営者にとっても助けになるはずだと考えたからです。

―― スマートワーク総研でもテレワークなど多様な働き方の制度やツールを紹介してきていますが、媒介となる「人」をそこに置くことで上手くいくこともあるのだ、ということがよくわかりました。またもしかすると、前半でお話しいただいた複業においても、こういった役割の仲介役がいると、さらに上手くいくかもしれないとも感じました。

生稲 両立支援コーディネーターのような仕組み、存在がそこにあることももちろん重要なのですが、最後は、そういった自分を支えてくれようとしている人たちと、コミュニケーションを図ろうという心の持ち方が大切だと思います。人の助けを素直に受ける、そうやって人と交わろうとすることの大切さは、わたしもこれまでの人生を振り返って痛感します。人は一人では生きていけません。いろんな人に支えられて生きてきたんだなあ、ときっと死ぬときに幸せを噛みしめることができるんだと思うんです。

―― 本日はお忙しいなか、ありがとうございました。

筆者プロフィール:まつもとあつし

スマートワーク総研所長。フリージャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者。取材・執筆と並行して東京大学大学院博士課程でコンテンツやメディアの学際研究、法政大学・専修大学にて講師を勤めている。著書に『ソーシャルゲームのすごい仕組み』(アスキー新書)、『コンテンツビジネス・デジタルシフト』(NTT出版)など。