あの人のスマートワークが知りたい! - 第31回

最先端技術で栽培したイチゴを宮城から世界へ


~農業生産法人 株式会社GRA 岩佐大輝さんに聞いた

2012年12月、東京の有名百貨店で1粒1000円のイチゴが登場し、さまざまなメディアで話題になった。この「ミガキイチゴ」を宮城県山元町で生産したのが岩佐大輝さん。東日本大震災で大きな被害を受けた故郷・山元町を復興するため、農業生産法人 株式会社GRAを設立。高設式養液栽培システムやITを活用した管理システムを導入し、イチゴ生産の効率化、品質の安定化を実現。GRA設立から10年後のいま、岩佐さんの思いやビジョンを聞いた。

文/豊岡昭彦


岩佐大輝(いわさ ひろき)
農業生産法人 株式会社GRA代表取締役CEO。1977年、宮城県亘理郡山元町生まれ。24歳でITベンチャーを起業。東日本大震災後に先端施設園芸を軸にした地域活性化を目的とする農業生産法人 株式会社GRAを創設。日本やインドで6つの法人のトップを務める起業家。主な著書に『99%の絶望の中に「1%のチャンス」は実る』、『絶対にギブアップしたくない人のための成功する農業』など。趣味はサーフィン。
http://www.gra-inc.jp/

イチゴによる一点突破というビジョン

――岩佐さんが2011年に農業生産法人GRA(http://www.gra-inc.jp/)を立ち上げてから今年で10年が経ちました。この10年間の活動について、いまどんな思いを持っていますか。

岩佐 私が生まれた宮城県山元町という地域は、東日本大震災による津波で約4000棟の家屋が全半壊し、イチゴ畑の約95%が流され、ほとんど何もなくなってしまいました。それから考えると、だいぶ変わった景色を作れたなと思うので、自己評価としてはよくやったんじゃないかなと思いますね。

東日本大震災直後に山元町に入り、最初はがれきを片付けていたわけですが、「東京でIT企業を経営してきた能力を使って、この町を立て直してくれ」というようなことをいわれ、それならどうするのがいいのか、さまざまな人に話を聞きました。その中でいわれたのが「優秀な若者ほど町を出て行ってしまう。これを解決しないと復興はない」という当時の町長からの言葉でした。町の中に若者が働けるような魅力ある産業を育てることが必要だと。そこで、山元町の魅力、強みは何なのかを考え、それは昔からこの町で栽培されてきたイチゴのビジネスだ、イチゴを武器に一点突破しようという結論に至りました。

そして、イチゴ農家として35年のキャリアを持つ橋元忠嗣さんというイチゴの匠をはじめ、さまざまな人の協力を得て、農業生産法人GRAを設立し、イチゴ栽培に乗り出したのです。そして、若者が働ける、魅力ある働き方を模索し、自分の得意分野であるITも最大限活用しながら、「ミガキイチゴ」というブランドを立ち上げました。

東京の有名百貨店で1粒1000円の価格が付いた「ミガキイチゴプラチナ」。さまざまなメディアで話題になった。

――「ミガキイチゴ」は、ITを活用した農業ということが強調されますね。

岩佐 現在、GRAが行っているIT活用は、水の温度、ビニールハウス内の温度や湿度、二酸化炭素などのデータをすべて集積し、それを活用するという方法です。それによって、これまでは達人や名人といわれる人の経験と勘に頼っていた農業をデータという形で形式知化し、より精度を上げていくことができます。いまの若者たちが達人たちのノウハウを学ぶのに朝3時から働いて10年かかるといったら、彼らが就農するとは思えません。現代の若者が納得して働けるワークスタイルとして、ITを活用することは当然のことでした。でも、それだけでは若者にとって魅力的な仕事にはなりません。

山元町という地方の町が若者を引き寄せるためには、ワークスタイルとライフスタイルという、2つの軸で提案することが大切です。ワークスタイルという意味では、ITを使った最先端の技術を持った植物工場で、世界でも指折りの品質の高いイチゴを作る。いっしょに働く社員の中に優秀な人がたくさんいる。地方に行っても最前線の技術の中で最先端の人と働ける。これがワークスタイルの提案ですね。

もう1つは、田舎に行ったときに楽しく暮らせるかという問題があるわけですね。これがライフスタイルで2番目のポイントです。そのためにどうするかというと、たとえば「ミガキ寮」という寮を作って住環境を充実させる。さらに、私自身が田舎のライフスタイルを楽しんで、朝は必ずサーフィンに行ったり、釣りに行ったりとか、そういうライフスタイルを楽しむ。そうすることによって田舎での生活は楽しい。かつ、環境もよくて、大自然の中で子どもを育てることができ、それなりの給料がもらえる仕事がある。これらのことを提案するのが起業家の役割です。

われわれは町役場のように、町並みを再開発し、インフラを整備することはできません。起業家としては成功事例としてのロールモデルを作って発信することが若者にとって魅力ある仕事につながるのではないかと思います。私はどんな日でも海へ入ってサーフィンをしたり釣りをしたりして、インスタグラムに必ずアップします。ワークスタイルだけでなく、ライフスタイルも提案することが大事だと思います。

――山元町はこの10年間で訪問者の数が増え、町民の平均年収も上がったとお聞きました。

岩佐 山元町は昭和のはじめ頃からイチゴの栽培を始めた土地で、イチゴ栽培では70~80年くらいの歴史があります。私のじいちゃんもイチゴ農家でしたから。私がGRAを立ち上げ、イチゴ栽培をスタートすると、山元町も町をPRするために、直売所を作って「やまもと夢イチゴの郷」と名づけました。そして、農家も行政も町民も一体になって町ぐるみで「イチゴの町・山元町」をPRしたんですね。

いままでイチゴの産地といえば栃木県や福岡県が有名で、宮城県はまったく無名でしたが、この10年で「宮城県といったらイチゴだよね」といってもらえるようになったわけです。そうすると、そこを目がけて人々が来ます。われわれGRAの農場だけで年間5万人ぐらいがイチゴ狩りに来るわけです。そのほかの観光農園や直売所なんかを合わせると70万人以上の人が山元町にやってくるようになりました。

さらに、町内で働く人たちの賃金があがりました。山元町は高齢化率が約40%で、宮城県内で高齢化率ワースト2位です。でも、そんなところでも町民所得が宮城県の中では真ん中よりも上になりました。幼児から老人まで含めた町民の平均年収は、震災前の190万円から270万円にあがったのです。イチゴの農業法人がたくさんできたことによって、働く場所がたくさんでき、雇用も上積みされていたということです。若者が町に戻ってきても働き口がある。GRAにも大学を卒業した若者たちがたくさん就職してくれる。いいなと思うのが、子育て世代のお母さんたちがたくさん働いていて、皆さん若い。日本の農業人口の平均年齢はだいたい70歳ぐらいですが、われわれの会社では、正社員の多くが20~40代です。農業で若い人がたくさん働いているという絵が作れたというのはとてもいいことで、「持続可能な農業」が作れたということだと思います。そのために魅力あるライフスタイル、ワークスタイルをちゃんと作るということがとても大事だということですね。

創業メンバーの3人。中央がイチゴ農家として35年のキャリアを持つ橋元忠嗣さん。

農業の中にも流動性を

――岩佐さんはイチゴの生産を始める前は、IT企業を経営されていました。日本では30年ぐらい前からデジタル化が必要といわれてきましたが、現状は先進7カ国の中で一番日本が遅れています。その理由と、農業の効率化が進まない理由と、根は同じでしょうか。

岩佐 ⽇本は⾮常に豊かな国だと思いますが、経済的には多くの産業で完全に遅れをとったわけですよね。しかも周回遅れレベルです。その理由を考えると、ニューカマー、新しく入ってくる人が、どれだけその業界に入りやすいか。人の流動性がどれだけ確保されているかが問題です。日本の産業でデジタル化が進まなかった理由はこれに尽きると思います。日本はどの産業でもそれができなかった。中国のように、仕組みをガチガチに作って一気にデジタル化を進めた国もあれば、アメリカのように、外から入ってくる人を受け入れ、競争や流動性を強く担保している国もある。

片や日本の大企業は、ニューカマーを一切受け入れなかった。さらに、競争が少なく、下剋上がなかなか許されなかった。結果的に世界中でデジタル化が進んだこの30年間、残念ながら日本の産業はデジタル化が遅れ、ほとんど発展していないと思いますね。

日本の農業も同じことがいえます。日本ではいまだに農業に新しい人がゼロから入るのは極めて難しい。地縁、血縁のしがらみ、農業独特の世界観があって、新しい人や企業が入っていくと排除されちゃうわけですね。こういう産業は、本当はかき回さなければいけないのですが、既得権益を守ったほうが有利に働くような世界では、うまくいかないわけです。新しい若い人がどんどん出てきて、業界をかき混ぜる、そういう起爆剤を作るのは日本の農業にとってとても大事だと思います。一旦成熟した強いものを作り上げたら、そこに流動性を持たせることを同時にやっていかなければいけないのではないかと思います。流動性ということが農業だけではなくて、どの産業でも大事なことだと思います。

――岩佐さんがイチゴ産業に参入できたのは、東日本大震災の直後だったということも大きいのでしょうか。

岩佐 東日本大震災では、元からあったものがゼロになったわけですから、農地もビニールハウスも流されて、何もなくなってしまった。スクラップされた中で、自由にビジョンを描けるという環境がありました。当時も参入障壁は厳しいものがありましたが、私も周りの人もそうするしかないという気になったということでしょうね。

震災から10年が経って、いまは保守性というのがものすごい勢いで息を吹き返しています。世の中が平和になってくると、やっぱり変わりたくないんですね。東北もいま、あのときに開いていた窓が閉じかかっていると思います。当時は全世界、日本全国から宮城や岩手、福島にボランティアに行ったわけですよね。いまはそうではありません。被災地側ももうウェルカムじゃない感じです。もうパタッとドアが閉まってしまうんじゃないかとすごく懸念しています。

GRAが新規就農支援事業を始めたのも、そういう問題意識があってのことです。新規就農者が普通に農業をやっても負け戦になるだけだから、少なくとも技術を覚えて、独立するまではわれわれが全面支援しようということで、新規就農者が独立するための学校、「ミガキイチゴアカデミー」というのを作ったのは、ドアが閉じかけている農業に若者をどんどん送り込みたいという考えからですね。

「若い人たちにどんどん参入してきてほしい」と語る岩佐大輝さん。

情報のネットワークで農業をコントロールしたい

――「ミガキイチゴアカデミー」を卒業された人は、宮城県だけではなく、全国各地で生産を始めていますけれども、「ミガキイチゴ」のネットワークを日本中に広げていきたいということですか。

岩佐 イチゴの作れる場所であれば、全国にこのイチゴの技術を広めていきたい。そして、新しい人、若い人がどんどん参入しやすくしたいのです。イチゴ農家もどんどん高齢化で引退していますので、その受け皿として地域を担えるようなイチゴ農家をたくさん作っていきたいと思います。

でも、そういうイチゴ農家をわれわれが管理してまとめて販売するというようなビジネスモデルを作りたいわけではありません。われわれの考える最大の目的は、全国に広がった生産性の高い、技術を持った経営者の方々と農業のデータや知見をお互いに交換しあうことです。農業というのは1周回るのに非常に時間がかかる産業です。たとえばイチゴの場合、親株を作って、苗を取って、収穫するまで20か月ぐらいかかるわけですね。このPDCAサイクルを回すのに20か月かかるものを、10か所で行ったら10倍、100か所で行ったら100倍のデータが集まるわけです。「情報によって農業をコントロールする」という、そういう世界観を農業で作っていきたいんです。そういう目的のためにたくさんの方に参画していただきたいと考えています。

社員との会話、そしてイチゴとの会話

――いま、岩佐さん自身はどんな働き方をされていますか。

岩佐 週7日間のうち、だいたい山元町に3日、東京に2日、出張が2日みたいな、そういう働き方ですね。休みは休めるときに休むということにしています。仕事と生活を切り分けないというのは農業ではわりと大事なところです。仕事をしているときも楽しい、生活しているときは仕事の糧である、遊んでいるときも何かにつながるということですね。だから、働くこととプライベートは分離しないようにしているんです。

山元町にいるときは、全部の農場に必ず週に1回は行きます。それで、細かく苗の状況を見て、それを栽培責任者に対してフィードバックします。いまでも私は会社の中で一番のイチゴの作り手だと思うんです。だから本当に細かいところまで見て、気づいたことをフィードバックするように心がけています。植物は繊細ですから、最先端のテクノロジーを使ったとしても、見えない部分がたくさんあるんです。そういったところは人の目できっちり観察する。過剰にデータに頼らないのもまた大切です。そういったことを社員に意識づけるために、私自身が農場を徘徊して、イチゴと会話するということをやっています。

農場に行くもう1つの目的は、人々と触れ合い、会話することです。われわれの農場だけで百数十人の人が働いていますから、そういった方々と触れ合って、そういう人たちがいま何を考えているのかを知ることが大切です。会社に行っても机に座ってパソコンをやっていたら、仕事をしていないのと同じ、経営者としては、社員の生の声を聞くことが仕事です。だから、ぐるぐる社内を徘徊して、社員にどんどん話しかける。そして、会議では大きな意思決定をする。パソコンは1人の時間にいくらでもできるので、会社でやることではないと考えています。

GRAの農場外観。コンピュータで温度や湿度を管理し、二酸化炭素量などさまざまなデータを駆使して安定的な生産を行っている。働く人はセグウェイで構内を走る。

世界の人々をイチゴで甘酸っぱくする

――いま、日本の食料自給率が38%ぐらいしかないといわれている中で、海外に日本の果物や米、牛肉などの農産物を輸出すればいいという意見が出てきますが、岩佐さんは著書の中で、農産物の輸出は簡単なことではないと書かれています。

岩佐 たとえば、韓国や中国が作っている農作物は、コスト競争力がずば抜けています。アジアの中で、日本のイチゴは確かに一番おいしい。でも、韓国や中国のイチゴもそこそこおいしい。そして中国のイチゴは日本のイチゴの5分の1、韓国のイチゴは3分の1の価格なので、そういう状況の中で日本のイチゴを海外に持っていっても戦えません。おそらく、あらゆる農産物で、日本のものを外国に持っていって本当に戦えるものはないと思います。ハイエンドのマーケットは取れますが、ハイエンドのマーケットはグローバルのマーケットの100分の1以下で、ビジネスにはならない。だから、いまのコスト構造では海外とは戦えません。

それでも私は、競争力の高いものを見いだして、輸出をする試みは必要であると思います。何のために輸出事業をやるかというと、日本の農産物がおいしいということを相手国の人々に知らせる。そして、そういうおいしいものを作っている国に来てもらおうということ。これが大事で、インバウンドの事業につながります。

おそらくコロナ禍が終わったら、海外の人たちが日本に殺到します。日本でおいしいものを食べたい人々が日本にやってくる。彼らに日本ではこんなにおいしいものを作っているんだということを見せるのが輸出なんです。だからこそ、農産品をがんばって輸出する必要があるということです。

――最後に、これからの10年でこんなことをやりたいというビジョンはありますか。

岩佐 私たちはいままで10年間、東北の地域社会の活性化のために農業を産業として強くするということをやってきたわけですが、ようやく一定の形が見えてきたと思います。こうした技術や経験は、イチゴ以外のあらゆる作物に転用可能であると思いますし、超長期ビジョンではそれをやる人をサポートしたいという思いはあります。

ただし、イチゴというのは、日本だけで数千億円のマーケットがあって、世界的にも毎年10%くらい伸びている市場なので、相当な成長産業なんです。ですから中期的にはこのイチゴという非常に魅力的な商材を使って、イチゴによる一点突破で世界中に「ミガキイチゴ」の世界観というのを広げていきたいですね。

世界はいま、二極化や分断が進んでいて、ギスギスした世界になっています。とくに新型コロナのパンデミックが起こってからはとんでもない状況になっているわけですね。世界の一体感なんてほぼないような状況になっている。こうした状況下で、われわれはイチゴを通じて世界の人々に幸せを感じて欲しいと思います。世界の人々をイチゴで甘酸っぱくするというビジョンですね(笑)。これを達成するために次の10年はやっていこうと思います。

生食用だけでなく、スパークリングワインなど、さまざまな商品展開をする「ミガキイチゴ」。

撮影協力:いちびこ太子堂店(東京都世田谷区)
https://ichibiko.jp/cafe/

筆者プロフィール:豊岡昭彦

フリーランスのエディター&ライター。大学卒業後、文具メーカーで商品開発を担当。その後、出版社勤務を経て、フリーランスに。ITやデジタル関係の記事のほか、ビジネス系の雑誌などで企業取材、インタビュー取材などを行っている。