羽生善治九段による「将棋界の動きは働き方改革にも通ずる」こととは

将棋界とは縁遠そうで意外と接点が多い


働き方改革は、さまざまな課題を解決しなければならず、進めていくのは難しい問題です。2月に行なわれた「DIS ICT EXPO 2020 in 名古屋」では、将棋の羽生善治九段が登壇し、「未来の棋譜をどう読むか、働き方改革の行方」のテーマでディスカッションが行なわれました。将棋界と働き方改革は一見縁遠い存在のように思えますが、考え方としては意外と共通点があります。当総研所長のまつもとあつし氏がナビゲーターとして、働き方改革の進め方を将棋の考え方に置き換えたトークイベントの模様を紹介します。

文/スマートワーク総研編集部


意外と変革が起きていた将棋の世界

写真左:羽生善治九段。1970年埼玉県生まれ。1985年、中学3年で将棋棋士としてプロ四段となる。1989年、19歳で初タイトル竜王を獲得し、1994年九段に昇段。2017年に史上初の永世七冠を達成。/写真右:スマートワーク総研所長 まつもとあつし。ITベンチャー、出版社、広告代理店、映像会社などを経て、東京大学大学院情報学環博士課程を修了。現在は敬和学園大学人文学部准教授を務める。

まつもと:日本における働き方改革は、労働法が改正され施行された2019年の4月から大きく変化しました。時間外労働の上限規制ができたり、有給休暇の消化義務ができた一方で、高い専門性を持った仕事(高度プロフェッショナル制度)でかつ年収が1,075万円以上の人は、時間に制約を設けない働き方も可能になっています。働き方改革と一言で言っても、さまざまなことが含まれていて、全体像が掴みづらい状況なのですが、羽生さんはこの働き方改革をどのように捉えていますでしょうか。

羽生:基本的に私は自由業という立場ですので、働き方改革には該当しません。ただ、お付き合いのある方のお話を聞くと、やはりここ1~2年で、かなりトレンドが変わってきたとは思っています。労働時間を減らそうとか、有給を消化しなくてはいけないといった目標はあるものの、目の前にやるべき仕事があるわけで、そのあたりのジレンマみたいなものがあるかなと感じています。

まつもと:羽生さんの周りには、例えば将棋連盟のスタッフや、対局時に記録を取っている奨励会の方々がいますよね。

羽生:そうですね。事務職をやっている方は雇用関係があるので、一般的な労働の法律が適用されるのですが、奨励会の人たちはプロになる前の養成機関の生徒です。対局時に記録を取っていますが、朝10時に始まって終わるのが夜中の0時を回ることもあります。そうなると終電もなくなって帰れなくなることもありました。昔なら、修行の一環として扱われてきましたが、最近は学校に通っている人も多いですし、対局後の片付けをせずに帰宅させたり、持ち時間を少し短くしたり、あるいは昼食や夕食の休憩時間を短くするなど、さまざまな工夫をしています。効果のあった例としては、夕方までは手があまり進まないので、1人で2局取るという形にして、早番と遅番をつくることで交代制にし、早く帰れる人が増えています。将棋の勉強もしながら、ちゃんとあまり遅い時間にならないようにという工夫のひとつですね。

まつもと:将棋の場合ですと、対局に向けた研究が必要かと思います。日本のホワイトカラーは生産性が低いと言われ続けていますが、時間と生産性について、プロとして対局や研究をする観点から、どんな思いでおられるのでしょう。

羽生:将棋の世界の難しいところは、時間を費やしたからといって、いい準備ができるとは限りません。もちろん、物理的な積み上げは大事ですが、質を高めていくには体感的なものもあるので、何十年もずっと試行錯誤し続けなくてはならない難しい課題だと思っています。

まつもと:逆にそれは、究極の生産性というか、「勝つ」ということを目標にした時間の使い方ということですよね。

羽生:そうですね。正しい方向性で努力をしないと、無駄な時間を過ごすことになってしまうので、最初の段階で方向性を誤らないことが非常に重要になってきます。微調整を繰り返しながら軌道に乗せていくやり方が私自身は多いかなと思っています。

まつもと:でもプロ棋士の方だと、集中して考えていたりすると、あっという間に長考してしまっているということも起こると思います。羽生さんはどのように時間を管理されているのでしょう。

羽生:集中するときはあまり時間を考えないことも多いですが、例えば対局であれば、トータルでどれぐらい時間があれば間に合うか考えることはあります。対局時間のマネジメントをする感じですね。残り時間とどう展開するかの戦略は、並列には扱わず、行ったり来たりしています。あと難しいのが、答えが出ないような局面に出会ったときに、どこで見切るかでしょう。そこをうまくできるかどうかで、時間の話や、クオリティーの話とかにもつながると思っています。

未来を見通す力をどう育むのか

まつもと:以前インタビューさせていただいたときは、ちょうど将棋とAIの関係がかなり注目をされていた時期で、将棋とビジネスの世界は似ているということでした。将棋の戦略は全パターンを突き詰めて考えていくと、コンピュータでも膨大な計算が必要になり、いくら時間があっても解にはたどりつきません。将棋の対局は持ち時間が最長9時間。到底すべてを分析することは不可能です。しかし、そんな中でも勝利を目指して未来を見通していかなければならないわけです。時間と決断とどうバランスを取るかなんです。

羽生:膨大な数の中から正しい答えを見つけようとなると、当然しらみつぶしでは駄目で、当たりをつけてそこを探して答えを見つけていくことになります。最初に当たりをつけるところが直感とか大局観といった、ざっくりと物事を捉える段階で、そこから一歩一歩確実に裏を取り、正確性を高めていくことになります。AIの場合は人間が一生かかってもできないようなシミュレーションをやってくれるという面もあるので、そういうものも活用しながら、分析や研究もしているのが現状です。

また、最近の棋譜データを調べるということによって、トレンドが分かることもあるので、次はこういう指し手が流行りそうだというところも見えてきます。幸いなことに、いまは膨大な量の知識やデータが残っているので、それを短い時間で解析していくことも大事な作業になります。

まつもと:なぜこういう話をしているかというと、企業における働き方改革を進めようというときに、企業の現状と、その組織が目指さないといけない目標というのを掛け合わせていくと、さまざまなパターンが生み出されるはずなんです。いまのお話にあったように、その中でどれが勝ち筋かを見極めていく必要がある。そのためには、データベースをまず活用しようと。

羽生:そうですね。いわゆる働き方改革って、ある意味抽象的じゃないですか。具体的に何をすればいいのかわかりづらい。結局、個々の組織や団体や個人のところでどうするかという裁量に委ねられると思っています。バラバラの状態では前に進めないので、ある程度きちんと統括して分析をすることで、何をやるべきかが見えてくるかと思います。

まつもと:もう一つ伺いたいのがAIの存在です。従来とは違うアプローチで、勝ち筋をコンピュータが見つけ、人間もそれを参考にする時代になってきています。その観点からはいかがですか。

羽生:AI自体はまだ歴史が浅いですが、初期のころはデータの量とハードウェアの力で進歩してきました。いわゆる力技です。しかし最近、将棋の世界でどうしてこんなに強くなったかというと、力技の部分もありますが、それ以外の人間的な要素もできるようになってきてきたのが大きな進歩の要因です。

1つは枝刈りと言われる、考えを省略する手段が非常に優れたこと。もう1つは、画像処理技術が非常に向上しました。コンピュータにとっては、盤面を見ても将棋の駒としては見ません。正方形の空間の中にある情報の分析と特徴を見出してすべて数値化されています。例えば、将棋以外の世界でも、囲碁がすごく強くなったり、医療の画像診断で高いパフォーマンスを発揮できたりするようになった理由は、この正方形の空間の中での情報分析の質が、短時間で高いパフォーマンスを発揮できるようになったからです。

まつもと:将棋や囲碁といった勝負事だと、勝つためのアルゴリズムというのがあるのかもしれませんが、それが世の中全般、社会や組織にまでAIを活用するとなったときに、どのように適用されていくものなのか、われわれにはまだイメージできないところではないかと思います。

羽生:AIの世界では「ディープラーニング」という手法があります。簡単に言うと、100人でやる伝言ゲームみたいなものです。実際に100人で伝言ゲームをやったら、途中で何が起こっているのかまったく分からないじゃないですか。でも、そこでそれなりにいい結果が出せるんです。ただし、サイバー空間で完結できる世界とリアルで動く世界はまったく別です。

だから、将棋などの世界はサイバー空間で完結できるので、どんどん進化できますが、自動運転などの場合は、リアルな世界で予測不可能な事態が起こるので、なかなか進化するのに時間がかかってしまいますし、さまざまなルールの整備も必要になってくると思っています。一言でAIといってもまったく違うジャンルだと、私は思っています。

まつもと:確かに自動運転の開発は、進んではするものの、まだまだ完璧には遠いいですね。

羽生:ただ自動運転になったほうが事故の数も減るし、それで亡くなる人もおそらく減るとは思っています。でも、もし自動運転で事故が起きたときに誰が責任を取るのか、法的にはどうすべきかは、これから整備する必要があると思います。今の段階では、世の中に迷惑をかけずにやっていくことが、健全な姿なのかなって思います。

まつもと:山口さん自身も、いまフリーランスで活動されていますが、かつては局アナという立場で、働き方改革とも無関係ではなかったと思うのですが。

山口:そうですね。2008年に入社したのですが、その時代は、いまと働き方や環境がまったく違い、それこそ残業は当たり前。新人のころは残業代がつかないのも当たり前でした。半年間で休みが片手ぐらいのときもあり、このままだと身体がついていけないと感じたこともありました。ありがたいことに、いまでもその会社で仕事をさせていただいているのですが、必ず休みなさいと指導されたりして、放送業界でも働き方改革が進んできているなと感じています。

進行役はフリーアナウンサーとして活躍中の山口由里氏が務めた。東海ラジオ放送で6年半アナウンサーとして勤務。

まつもと:お二方とも高度に専門性の高い仕事をされているのですが、取材でアニメを作っているクリエーターにお話を伺うと、働き方改革はやめてほしいと言うんです。年収1,000万円以上もないけれど、自分がいま打ち込んでいる作品を高いレベルに引き上げてこそ幸せなのであって、残業せずに帰りましょうというのは、困るということなんです。

羽生:その人にとっての仕事の定義が何なのかに尽きると思います。私自身は10代のときにこの道に入ってしまったので、職業を選択した感覚すらありません。だから時間が来たから帰るという発想はまったくありませんでした。特に何かものすごく高度なことをやろうとするとき、短期間で集中して続けてやらないと習得できないこともあると思うので、制度によって、それを阻害してしまうのはどうなんだろうと思うこともあります。ある程度、裁量の部分をちょっと大きくしておいて、そういう人たちもちゃんとすくい上げられるような制度にしていただけるとありがたいですね。

例えばよく最近、高校野球で投球制限をしたり、続けて登板してはいけないとか、いろんなルールができているじゃないですか。業種や職種によって違いますが、おそらく人間にとって適切な量というのがあって、それをきちんと見極めてルールを作るというのが正しい方向性なのかなと思ったりしています。

まつもと:高度プロフェッショナル制度だと、年収の高い職業・業種だといいのですが、さきほどのアニメーターの話だと対象外になってしまいます。これまでは、非正規の雇用や業務委託という形が多かったのですが、それでは良くないと正社員として雇用しようという流れが生まれています。でも雇用されると、今度は時間に縛られ、休みも取らなければならなくなり、それでは嫌だという話をよく耳にします。羽生さんがおっしゃった業種や職種ごとにもう少し細かな適用があってもいいのではということですね。

戦い方をどう変革していくのか

まつもと:ここまで将棋の世界と比較して考えることで、未来の見通し方は何となくはイメージできたと思いますが、では実際に、組織や会社・企業をどのように変えていけばいいのか。ここが一番厄介だったりします。羽生さん自身もこれまで戦い方のスタイルを変えてこられたかと思いますが。

羽生:将棋は分析も大事ですが、実際やってみないと分からないケースも多々あります。そして、いちばんたくさんのことを吸収して学べるのは、公式戦での実際の局面です。戦い方を変えようとしたとき、新しいことばっかりやってしまうと、負けて結果が出なかったり、うまくいかなかったりというケースも出てきます。そのため、どこまでリスクを取れるかが重要です。

将棋の世界では、若い世代の人たちが非常に強いのですが、なぜ強いか考えたとき、記憶力がいいとか計算が速いということだけでなく、駄目になってしまった考え方や戦術をばっさり捨てられるかどうかがすごく大きな要素だと思っています。

まつもと:これまでの定跡をということですか?

羽生:そうですね。例えば私自身も長くやっていると、経験値が高い戦い方とか戦法があるのですが、時代遅れで駄目だと思うときもあります。しかし、そこに思い入れや費やした時間があるじゃないですか。そうすると、なかなか捨てられないものです。でも、新しい世代の人たちは、そこをバッサリ切り捨てられるんです。それがすごく強味になっているのではと考えています。

戦略を変えようとしたとき、心掛けていることは、小さな変化・リスクを毎回取り続けていくことです。一日で大きく変えるのではなく、毎日ちょっとずつ変えていくと、1年たったら前とは違うスタイルになったり、違う方向性を見いだしていたということになります。小さいリスクを取り続けていく、小さな変化をし続けていくことが、比較的リスクの小さいやり方だと思っています。

まつもと:働き方改革に置き換えると、一気にいろんなことを変えてしまったら、企業にとって、もすごく負担が大きくなります。よく言われているのは、正社員の条件を下げて、非正規の方の条件を上げようとしていますが、果たして本当にそれが幸せな道なのかという議論もあります。なので、ちょっとずつリスクを取って変えていくというのは、大事な観点だと思います。ただ一方で、待ったなしの変革と言われたりもします。そこを突き詰めると、時間との関係なのかなと思ったりもします。

羽生:確かに。将棋の世界もそうですけど、いま世の中の移り変わりも早いので、ゆっくりはしていられないところもあります。そこはリーダーやマネジメントしている方々が決断する難しさなのではと思います。時間をかけていくほうが、ひずみも犠牲も少なくて済むのは間違いありません。しかしビジネスとしたら、時間との闘いっていう面もあるので。そのあたりの兼ね合いが大事にはなると思います。

まつもと:羽生さんの著書で「積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にする」というフレーズはとてもいいと思いました。働き方改革についても、これに当てはまる面は大いにあると思いました。

羽生:それは1つのきっかけというか、いままで手を付けられなかったところや、解消しなくてはいけなかったものが、働き方改革をきっかけとして進むことが、1つの理想形なのかなと思います。

まつもと:今日お話ししていて思ったのですが、働き方改革でおもに法律が解消しようとしているのは、割とマイナスだったところをゼロにしようという話であって、ゼロからさらにプラス、攻めの働き方改革というところまでいかなければならない。そうなると、リスクを取っていく必要があると感じました。

羽生:当然ながら変えていくと、それに伴う変化は付いてきます。いまは非常に先を見通しづらい時代だと思いますが、だからこそ積極的かつ柔軟に対応していくことが求められる気がします。

山口:最後に「この決断とリスクはワンセットである」という言葉がありましたが、私が会社を退社するときに上司にも言われたことを思い出しました。私も少しずつ、リスクを伴うかもしれませんが、自分なりに変革をしていければと感じました。本日は羽生さんいかがでしたか?

羽生:テーマが働き方改革ということで、棋士の世界はちょっと縁遠いところではありますが、ただいろんな方にお会いする中で、やっぱり本当に実感を持ってそれに取り組まなくてはならないと感じることが多いです。それは簡単なことではないと思いますが、何かやることが大事なことだなということを、今日いろんなお話を聞いて強く思いました。